うちの猫と一緒にくつろいでいる猫は,まるで兄弟のようにというか,本当の兄弟なので,小さい頃からの仲良しなのです。お隣と一緒に,同時期に捨て猫だったものを貰い受けました。
うちは白黒が混じっていますが,隣は真っ黒です。名前をトラ(コーヒーのトラジャ)といい,人懐っこいので,近所の子供達からも「トラ,トラ」と可愛がられておりました。うちは室内で飼っていますが,お隣は外飼なのです。食欲をつかさどる神経系に多分障害のようなものがあって,室内に置くと,人間の食べ物まで何でも食べ散らかしてしまうので,おそらく苦肉の策として外飼にしたのではないかと思っておりました。
もう家に来て8年は経過しているのですが,そのトラが行方知れずになってもう1ヶ月になります。うちのが散歩に出ると,必ず寄ってきて,二匹で散歩しているから,とっても可笑しいなと微笑ましく思っておりました。
ある時,近所のおばちゃんから,うちも前飼っていた猫が,どうやら毒をもられたらしく,死んでしまったという話を聞きました。トラがそのような状況なのかはわかりませんが,とにかく全く姿を見ません。仙台市の条例で,猫の放し飼いは禁止にされていることは分かります。外飼していたお隣の責任ということももちろんなのですが,私は何が言いたいのかというと,少しの許容も許されないこの世の中に,非常に不安を感じているということなのです。よく岩合光昭さんの猫のシリーズをTVで見ていると,イタリアの漁村で,帰ってきた漁師が,地域猫に魚を分けてあげて,猫たちはお腹を満たしている様子が描かれていたりします。外飼している猫が地域のみんなから声をかけられているようなあの雰囲気がいいなと思うのです。もちろん猫が大嫌いだという人の主張も分かります。でも少しの許容もなくなってしまえば,この世界はとても住みづらくならないかということなのです。
いじめが無くならないという現実も,もしかしたら同じところに根っこがあるのかもしれません。このコロナ禍で疲弊している今だからこそ,みんなが互いに相手の気持を思いやることができる世界が大事なのではないかと思います。私達が子供の頃,戦後10年余過ぎた昭和の時代では,もっと世の中が寛容だったなと懐かしく思います。どこにも行けないこの5月の連休に,悶々としている自分ですが。